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ボレロ村上 - ENiyGmaA Code

中3女子です。

機械になりたいという願い

 今回は書評のようなことをします。
 ツイッターで知り合った友人が小説を書いているのですが、その中で主人公がこうした独白をします。

 ――機械になりたい。
 かつて希海はそう思っていた。今でもそう思っている。
 機械なら臆病風や怠惰といった心に負けることもなく、自分がやろうと思ったことができる。機械なら嫌われることや失敗することを恐れたりなんかはしない。

ふたりのハードプロブレム


 機械になりたい、というのはいったいどういう種類の願望なんでしょうか。
 たとえばこれを不死願望や変身願望の一種のようなものと捉えるならば、人間にとって普遍的な願望のひとつであるとも言えるでしょう。

 吸血鬼のような不老不死の存在は古今東西さまざまな創作においてたびたびモチーフとされてきました。
 機械的存在に限定しても、生体部品を機械に置換して肉体をサイボーグ化したり、意識を情報化して電脳空間上の実体として生きたりといった手段で得る半永久的生存は、とくに SF における古典的テーマといえます。

 いっぽう、『銀河鉄道999』において主人公鉄郎が「機械の身体を手に入れたい」と願ったのは、機械化人に復讐を果たす力を手にするという目的のためでした。鉄郎自身は永遠に生きたいなどと思ってはいないわけですから、これは「人間以上の力を得たい」という変身願望に分類すべきでしょう。


 では、この作品『ふたりのハードプロブレム』における主人公青山希海についてはどうでしょうか。
 青山希海は大学に不登校中の引きこもり(女子)です。
 自身そうした境遇を快く思っているはずもなく、内罰的な思いを抱えています。
 そのような心の弱さを持った存在から、そんなものを持たない存在へ転換したいという逃避的な感情からくる変身願望であると、表側からはそう読むことができます。
 しかしそれが全てだと言いきることはできません。


 作品のヒロインであるアンドロイド・リコはきわめて高度なニューラルプロセッサで動作する非常に人間に近しい人格をもっています。
 とうぜん多様な感情や学習能力をそなえており、実装された感情のなかにはおそれや悩みといったネガティブな方面のものも含まれていることでしょう。
 どれだけ科学技術が進歩すればそこまで至れるかはともかくとして、人工知能研究といった現代の科学の歩みが「より人間らしい機械」という方向に向いていることは間違いないでしょう。


 しかし、青山希海はそれを拒絶します。

「何が人間よ」
 結局はそこなのかも知れない。東の言っていることは一から十まで理解できる。納得がいかないのは、その前提だ。アンドロイドをどこまでも人間に近づけるというその思想が、希海にはどうしても受け入れられなかった。
「そんなに人間が作りたきゃ……さっさと結婚でもすればいいのよ」

ふたりのハードプロブレム

 青山希海にとって、不全な感情を排した機械とは彼女自身がそうありたいと望む理想であって、それをわざわざ人間としての自分のように不全な存在へと近づけるというのは、いわば理想に対する侮辱と同義であったということでしょう。


 とはいえ、十分に進歩した機械が肉体のうえでも意識のうえでも人間同等の機能を有しうるという事実は、希海自身も認めざるを得ないでしょう。

 遠く離れた宇宙の核融合炉と、そこから発せられたおびただしい数の光子フォトン。その一部が1億5000万kmという途方もない距離を旅し地球にやってきた。大部分は大気に散乱されるも、いくらかの光子は希海の目にまで到達する。瞳孔をくぐり抜けた光は水晶体に分極を発生させながらその進路を曲げ、網膜に像を結ぶ。像を結んだ光子は光感受性蛋白質ロドプシンやフォトプシンの電子を励起状態へと蹴り上げ、パルス状の電気信号が爆竹のように視神経を伝わっていく。

ふたりのハードプロブレム

 なぜなら、冒頭の描写からも分かるように、人間のふるまいもまた機械的原理のメカニズムにもとづく複雑な相互作用の総体がその実体であるということを彼女は理解しています。
 そうした人間機械論的立場に立つならば、人間性と非人間性とを分かつものは人や機械といった素材や繁殖手段などの定義分類によるものではなく、そこに実装されたふるまいの違いにすぎないことも演繹できます。
 してみると、「機械になりたい」という願いは、青山希海を機械論的対象として捉えるならば「ロボットが自分に実装された機能を廃止したい」と言っているのと本質的に変わらず、「機械」というテーゼが事実上意味をなさないものになってしまいます。
 では青山希海の考える「人間と機械」にはそれ以上のどういった差異があるのでしょう。
 そこに「機械になりたい」という願いの裏側の本質があるとぼくは(勝手に)思っています。


 われわれ人間と機械が決定的に異なるのは、機械は設計された解析可能な存在であるということです。
 機械がどれだけ複雑で不可解なふるまいをしようとも、たとえそれが人間の意識以上に高度な作用が生じていたとしても、設計し実装した人間はそれが「どのように作られたか」という原理を理解し、解析することができます。
 現代の機械はハード、ソフトともに非常に密であって、ひとりの技術者が把握しきれないものではあるけれど、だれかの理論、だれかの設計、だれかの実装、そうした複雑だけれどトレーサビリティのある技術の総体にほかなりません。機械は、ふるまいの結果からではなく設計レベルからの解析をすることが可能です。


 ところが、人間はそうはいきません。
 人間が機械論的に決定可能な存在だとしても、いまのところ人類にとって人間自身は巨大なブラックボックスの塊です。
 脳神経の活動から、感情が脳のどこの部位の活動によって生じているかを観測することはできても、なぜ、どのように神経がそのように配置されたかという設計者の意図を解析することはできません。
(これに対してもっとも非科学的に解決を与えようとすれば神の存在を持ち出せば済みます)


 アンドロイドであるリコが持つ感情が、なぜそうであるかと問えば「そのように設計・学習された」からだと答えることができます。必要とあらば、その基礎原理やハードウェアの設計書やソフトウェアのソースコードをひとつひとつ並べることも可能でしょう。
 けれど人間である青山希海は、怠惰や失敗へのおそれといった感情を、「人間であるから」という以上に解析することはできません。解析できずに甘受するしかないからこそ苦しむのです。


 このような観点に立つならば、「機械になりたい」という願いは、「解析可能な存在になりたい」という願いに言い換えることができます。
 それは、自分自身がほかならぬ連続的な実体としての自分という存在を認識することでもあります。つまり「完全な」アイデンティティの確立です。
 なぜ自分はこのような自分なのか。
 ある意味では、それを理解すること以上に確固たる自己を持った人間として生きるための精神的支柱はありません。

 自分自身の依って立つ原理を理解する――それは SF でいえばグレッグ・イーガンの『しあわせの理由』『決断者』『祈りの海』などで形を変えながら述べられてきたテーマでもあります。


 ぼく自身は「機械になりたい」と願ったことはありません。
 なぜといえば、人間というハードウェアはほかのあらゆる機械よりも汎用で冗長性がありすぐれた機能をもったハードであると認識しているからです。
 けれども、そのハードウェアに致命的な不具合を感じ、不具合を解析不能なハードに不満を抱いたとしたら……機械になりたい、それが一つの魅力的な選択肢として演繹されるであろうことは否定できません。


 まあ、『ふたりのハードプロブレム』という物語自体は、そうした存在論的テーマをちりばめつつも、女の子どうしがくんずほぐれつしたり一つマフラーでデートしたりあんなことやそんなことになったりします。
 もっとお願いします。

 なおこの作品はまだ完結していません。
 なのでどのような結論、結末が用意されているかはまったく分かりません。
 青春を床に落としたような主人公希海がリコの存在によって救われていくのは間違いないようですが。


 ちなみに、『ふたりのハードプロブレム』はぼくが今冬の第十九回文学フリマで出す予定の合同誌 暗黒定数式 The Dark constexpr に収録される予定です。
 このステマに興味を持たれた方はぜひお待ちしております。