ボレロ村上 - ENiyGmaA Code

中3女子です。

「デザインはなぜ無報酬とされたのか」に対する芸術家からの反論


以前話題になり批判が盛り上がった件の「天王寺区広報デザイナーの募集」について、
イラストレーターの方による論評を見かけたのですが、ここでは芸術家の立場からの再反論をしたいと思います。

引用:

「設計」と「芸術」をいっしょにしてはいけない。「奉仕」と「ボランティア」をいっしょにしてはいけない。この違いを共通認識できれば、その先にもっと面白い世界が待っているだろう。


上記記事を自分なりに要約すると、「デザインとは設計であり、芸術とはまったく別物である。芸術とは、本来それで対価を得られるものではない。だが設計に対価を払わないのはおかしいし、デザインと芸術を混同したところに件の募集の誤謬があった」という主張がなされている。
僕はこれに反論しようと思う。


念のため断っておくが、僕は「無報酬で仕事をする」という立場には完全に反対だし、デザインには対価を払うべきという言説には完全に賛成である。
反論したいのはその結論にではなく、「デザインと芸術が別物である」という事実誤認と、それに基づいた議論の進め方に対してである。


まず身分を明らかにしておくと、僕は縄文造形家である。

はてダではプログラミング(というか constexpr)の記事ばかり書いているが、造形のほうが本業だ。(陶器もやる)
社会的地位はともかくとして、作品をつくり、個展をやったり、作品を売って日銭を稼いでいるから、芸術家を名乗って間違いはないと思う。
その立場から主張を述べようと思う。


デザインか芸術かは何も関係ない

引用:

芸術もスポーツも、自発的な行為であり、「本来それで対価を得られるものではない」のだ。一部の優れた行為者だけが、その人に対しての対価を世間から得ることができるのだ。

こう考えると、この天王寺区のように世間一般が「デザインやイラスト」の対価に納得してくれないことにものすごく合点が行く。世間一般はデザインやイラストを「芸術」だと思っているのだ。


これは、芸術の解説として、完全に誤りである。
「デザインには対価を払うべき」という結論を導くために、芸術をスケープゴートとして、無報酬という悪徳を押しつけているにすぎない。
何のことはない、「好きでやっているのだから無報酬/低報酬でもいいよね」というようなブラック企業的言辞と、内容はまったく一緒である。


たしかに、芸術というか創作において、報酬や社会的評価とは無関係なところから「動機」が生まれるということは多い。それは事実である。
しかしそれは単に内面の問題であって、成果物に対する報酬が不要である、もしくはそれが対価を得られるものではない、ということはまったく関係ない。
自発的行為によってつくられた成果物が「対価を得られるものではない」なら、この世の商品の大半は無料になっているはずだし、無給で働くサラリーマンもいるはずである。


例えばあなたが趣味として報酬もなく頼まれもせず、しかしそれなりの時間と労力を費やしたもの(イラスト、クラフト、ブログ記事、ソフトウェアなど)を、
ある日誰かが「商品開発に使いたい。しかし報酬は一切ないし、報酬以外のことであなたを評価することもない」と言われたらどうするだろうか?
僕ならば、その場で相手を叩き出すだろう。
元記事の人もおそらく断ると思うし、あなたもきっと断ると思う。
侮辱に等しい依頼だと思う人は、僕だけでなく、たぶん何人もいると思っている。


それは、報酬というものが、評価の一つの指標だからである。
趣味でもそうなのだから、それを生業とするプロにとってはなおさらだ。
プロの芸術家は、単に芸術をやる人ではなく、芸術を生業として飯を食っているからプロの芸術家なのである。
それで飯を食うとは、創ったものを金に換えているということだ。
金も貰わず評価も貰わずにものを創っている人間は、間違いなく芸術家ではあっても、プロの芸術家ではない。
すくなくとも、金というのが価値の指標として存在している現代においてはそうである。
でなければ芸術家は、文字どおり仙人のように霞を食って生きなければならない。そして霞を食って生きられる霊長類はこの世に存在しない。


こう考えると、元記事主が「芸術」の対価に納得してくれないことにものすごく合点が行く。元記事主は芸術家を「仙人」だと思っているのだ。
というのは冗談としても、「芸術」というのが世間一般から乖離したところにある、きわめて特別で無縁な存在であるというふうには考えているのだと感じる。
何度も言うように、プロの芸術家は創ったものを金に換えているからプロなのだし、だから実際のところ報酬には人一倍シビアだ。
イラストレーターが1000円の安値で仕事を受ければその人は1000円のイラストレーターという評価を受けるのと同じように、
1000円で作品を売った芸術家は1000円の芸術家になる。イラストレーターも芸術家も、プロという意味で何も変わらない。


ここをはっきり説明していかないと、いつまでたっても芸術は一部の物好きの趣味で仕事として成立しない世界になってしまう。
芸術は対価を得ない特殊で特別な思想の行為だと考えるのは勝手だが、芸術の本質はそこにはない。


(そもそも僕は、イラストなどは芸術というカテゴリのサブカテゴリだと考えているから、分けて考えること自体おかしいと思っているのだが。
 芸術家とは、自分の霊感(インスピレーション)を技術的に表現して作品とする人間のことである)


スポーツも同じ

元記事ではスポーツ選手に言及していたが、

プロスポーツというのは何なのかというと、優れた選手にスポンサーが付く

というのはまぁ間違っていないとしても、デザインと芸術云々の論拠にはなっていない。
スポンサーは何のために金を出すかといえば、「スポーツ選手の技能(とその試合)によって広告を行う権利」を買っているわけだから、広告のために有名イラストレーターの絵を買うのと同じである。


引用:

プロ野球やJリーグの選手は、試合を見せることでお金を得ているのかというと、そうではない。その人達がすぐれた選手であり、その人たちが行う試合だから、人々はお金を払うのだ。試合という行為にお金を払っているのではない。だから草野球の試合でお金を取ろうと考える人はいない。

これも違う。
スポーツの試合に金を払う、演劇や音楽に金を払う、漫画やイラストに金を払う、これらの行為に違いはない。
すぐれた選手だから金を払って試合を見るという理由と、好きなイラストレーターだから金を払って絵を買うという理由に、変わりはない。
「スポーツ選手が観客から直接対価として金を貰っているわけではないだろう」という意見もあるだろうが、つまりそれはサラリーマンと一緒である。
組織に属して組織の利益(この場合は試合の収益や放送権料その他)に貢献することで、組織から対価を貰う。
スポーツ選手だから何か社会的に特別な稼ぎ方をしているというわけではない。


ともかく、生業として何かしらをやっている者について、「対価を得られない」云々を言うのはまったくの誤りだ。それはプロという存在の否定である。
農業でも製造でもサービスでも、スポーツでもデザインでも芸術でも変わりない。
だから、「デザインはなぜ無報酬とされたのか」は、デザインと芸術を混同した為では、全くない。


では、本当はデザインはなぜ無報酬とされたのか

これは簡単だ。
依頼側(この場合は区)が、無知と無理解、そして想像力の欠如にもとづいた甘い考えを持っていたからだ。
往々にして、技術や技能を持った人間には、しばしばそういったことが起こる。


これは何も特殊で特別な技能に限ったものではない。
PC のトラブル解決、車の修理、年賀状のイラスト、チラシのデザインなどを、「あなたこれが出来たよね」などといって頼まれたことのある人間は多いはずだ。
本当に片手間でできることならまだいいが、チラシ作成(印刷を含む)などあきらかに相応の支出がいることまで無償でやれという依頼もある現実なのだから、救えない。
それというのも、人間は自分のよく知らない(と思っている)分野に対しては途端に想像力が欠如しがちだからだと思う。
想像が出来ないから、その分野で必要な労力や経費や報酬を、不当に低く見積もってしまう。
まして相手が身内となれば、なおさら甘い考えを持つことになる。


依頼側がそうした「甘え」を持って募集をしたから「無報酬」などという条件がついたのだし、
そういう甘えた募集だったからプロのデザイナーをはじめ各所から批判が寄せられた。
僕はそのように捉えている。


そうした甘えの根底にあるのが、無理解と想像力の欠如である。
人間、理解しがたい分野が存在するのがむしろ当たり前だし、そうした対象への想像力が欠如するのは仕方ないことではあるけれど、
「彼らは自分たちとは違うのだから」として二元論的に線を引いて分析しようとするのは、戒めたいことだと思う。(自戒を込めて)


(蛇足)芸術の対価とは

といっても、そうした金銭的報酬の介在しない芸術というものは、存在はする。
それは芸術が人間のためのものではなかった時代、つまり芸術とシャーマニズムが別ちがたく結びついていた時代のことだ。
つまり、例えば洞窟壁画や、縄文の土偶がそうである。


こうしたものは人間が愛でるためでなく、神や精霊のためのものだった。
(じっさい、多くの洞窟壁画はもともと人間が容易に見たり立ち寄りがたい場所に描かれている)
だから芸術をおこなうシャーマンはそれだけで価値のある存在だったし、「報酬として」金銭や物品を要求する必要がなかった。
日々の糧にも四苦八苦するような時代でも、人類には何か創らずにはおれぬ創作意欲があったし、それは芸術家に限らず現代のわれわれにも引き継がれている。


時代が降るにつれて、芸術は王や貴族など特別な人間のものになり、やがては大衆のものになった。
そのこと自体の好悪の判断は避けるが、対価の観念が変わっていったのは確かだ。
何しろ、大衆は金を得なければ死ぬ。
どんなに巧緻な技術の窮みを尽くして奇想天外な発想できわめて高邁な思想と祈りを体現した作品を創ろうとも、金が得られなければ乞食である。
それは社会と市場が現在そうなっているからだし、それを悪だとか否定するつもりもない。
ようするに現代、仙人のような芸術家は、すくなくともプロとしては原理的に存在しえないということだ。


さんざん金の話題をしてきたが、実際のところ僕は生活する以上の金は必要ないと思っているし、できれば無縁のところで生きたいと思っている。
だいいち本当に貧乏だ。好きなものをつくっているし、生きていける限りは、売れなくてもつくっていさえすれば幸福とさえ思っている。
つまり、霞を食って生きていたい。仙人のような存在が理想だと思っている。
それでは生きられないから、作品を売るし、売るためにはどうすればいいか本気で考える。
そのように努力しているから、何とか食えている。
ほとんどすべての芸術家はそうだし、創作を生業にするとはそういうことだ。


だからこそ、何かを創作する人間であればなおさら、「芸術」とそれ以外に線を引くことはしてはならない。すくなくとも結託すべきである。
そのほうが、面白い世界を目指そうとするならば、より建設的なはずだ。